LOGIN
午前零時四十三分。
瑞穂宮邸の東棟二階、結月内親王の私室では、本来ならばとうに消えているはずの明かりが、分厚い遮光カーテンの隙間からほんのわずかに漏れていた。
もっとも、その明かりは天井の照明ではない。ベッドの中に潜り込み、布団を頭までかぶった十九歳の少女が、手元の小さな読書灯をつけているのである。
「……そこです。そこで引き止めなければ駄目です。どうして帰らせてしまうのですか。今ならまだ間に合います。走ってください、早く……!」
声を潜めているつもりなのだろうが、興奮すると少しずつ大きくなる。
結月は枕へ頬を押しつけながら、手にした漫画のページをめくった。
作中では大学生の男女が、雨の降る夜の駅前で別れようとしていた。
互いに好きなのは読者なら百ページ前から分かっている。それなのに本人たちは、相手に好かれているはずがないと勝手に決めつけ、言わなくてもいいことを言い、聞けば済むことを聞かず、見事なまでに話をこじらせていた。
結月はそういう場面が大好きだった。
いや、他人事だから好きなのである。
「違います。『元気で』ではありません。そこは『行くな』でしょう。どうして男性というものは、こういう肝心なときに……あっ」
次のページをめくった瞬間、結月は口を押さえた。
青年が走り出した。
駅へ向かった彼女の腕をつかみ、振り向かせ、そのまま抱きしめる。
そして、ついに告白した。
「……よかったぁ……」
皇族として公式行事に臨むときには、決して人前で見せることのない、心の底から安堵した顔だった。
結月はもう一度そのページへ戻り、告白の台詞を読み返した。それから少し迷い、枕元に置いてあった紺色のノートを手に取る。
表紙には、自分で書いた題名があった。
『大学生活で絶対にやりたい青春イベント百選』
世界中の誰にも見せられない秘密のノートである。
結月は万年筆を取り、すでに書いてある項目へ小さく補足を書き加えた。
『四十三、雨の日に好きな人と相合傘をする』
『四十四、駅で帰ろうとしたところを引き止められる。ただし腕を強くつかむのは痛そうなので要相談』
そこで手を止める。
「……要相談とは、誰と相談するのでしょう」
書いてから気づいた。
相談すべき恋人など、当然ながら今はいない。
そもそも結月には、異性の友人すらほとんどいなかった。
「まあ、将来の私でしょうか」
自分で納得してノートを閉じかけたところで、扉の外から声がした。
「殿下。まだお休みになっておられませんね」
結月の肩が跳ねた。
漫画を布団の下へ隠し、ノートを枕の裏へ押し込む。その動作だけは、十年以上にわたる秘密活動によって鍛え上げられている。
「休んでおります」
「お声が聞こえました」
「寝言です」
「先ほどから十五分ほど、かなり筋の通った寝言をおっしゃっています」
扉の向こうにいるのは、結月付きの侍女、藤崎香澄だった。
四十代半ばの彼女は、結月が幼い頃から身の回りの世話をしている。そのため、結月の嘘など大抵は三秒で見抜く。
「殿下。明日は午前八時からご予定がございます」
「承知しています」
「六時半にはお起きいただきます」
「もちろんです」
「では、布団の中にお隠しになった漫画を閉じて、お休みください」
結月は沈黙した。
どうして分かったのだろう。
いや、分からないほうがおかしいのだが、本人としては毎回かなり巧妙に隠しているつもりだった。
「藤崎」
「はい」
「これは漫画ではありません」
「では何でしょう」
「現代若者文化を理解するための資料です」
「先月は『庶民文化の研究』とおっしゃっていました」
「研究が進み、分類が細分化されたのです」
「なるほど。それでは研究熱心な殿下に申し上げますが、明日の公務中にあくびをなされば、若者文化の研究資料は一週間お預かりいたします」
「それは横暴です」
「横暴ではございません。睡眠不足の十九歳を寝かせようとしているだけです」
反論の余地がなかった。
結月は渋々読書灯を消した。
「おやすみなさいませ」
「……おやすみなさい」
廊下を遠ざかる足音を聞きながら、結月は暗闇の中で目を開けていた。
眠気はあった。
けれど、頭の中では先ほどの漫画の場面が何度も繰り返されている。
雨の駅。
走って追いかける青年。
泣きながら振り返る少女。
きっと実際の恋愛は、あんなに都合よく劇的なことばかりではないのだろう。
結月だって、その程度は理解していた。
漫画やライトノベルは物語だ。
作られた世界である。
それでも。
「……一度くらい、してみたいな」
暗闇の中で、誰にも届かない声を漏らした。
恋を、ではない。
それ以前のものだ。
友達と駅前で待ち合わせをすること。
講義が終わったあと、予定も決めずに寄り道をすること。
安いファミリーレストランで何時間も話をすること。
試験前に友人同士で勉強しながら、気づけば全然関係のない話で盛り上がること。
好きな相手からメッセージが届いたかどうか、スマートフォンを何度も確認すること。
そういう、世間では珍しくもない時間が、結月にはひどく遠かった。
結月内親王。
その名前で生まれた瞬間から、彼女の人生には必ず誰かがついていた。
外出には警備がつく。
訪問先は事前に確認される。
会う相手も、乗る車も、歩く道も、安全のために確認が必要になる。
もちろん、それを恨んでいるわけではなかった。
自分の立場が特別であることも、その立場には責任が伴うことも、物心がつく前から教えられてきた。
ただ、ときどき考えてしまう。
もし自分が結月内親王ではなく、ただの十九歳の結月だったなら。
明日は、どんな一日だったのだろう。
◇
翌朝八時十分。
「本日はお目にかかれて、大変嬉しく思います」
前夜、布団の中で恋愛漫画の主人公へ「そこで抱きしめるのです」と力説していた少女と同一人物だとは、誰も想像できないだろう。
結月は淡い藤色のワンピースに身を包み、施設の玄関で迎えた関係者へ穏やかな笑みを向けていた。
今日は障害のある子供たちの教育支援施設を訪問する予定になっていた。
カメラが並んでいる。
記者たちもいる。
少し離れた場所には警護担当者が立ち、結月の一挙手一投足を見守っている。
こういう場では、結月はほとんど失敗しない。
姿勢。
歩幅。
言葉遣い。
笑顔。
相手の話を聞く時間。
質問の仕方。
幼い頃から繰り返し教えられ、それ以上に数え切れないほど実践してきた。
「大学では何を勉強するんですか?」
施設を見学している途中、小学校高学年くらいの少女に尋ねられた。
付き添っていた職員が少し慌てた。
「すみません、殿下。失礼な質問を」
「いいえ。何も失礼ではありませんよ」
結月は少女と視線が合うように、少しだけ腰を落とした。
「歴史や文化について学びたいと思っています。でも、まだ迷っていることもたくさんあるのです」
「大学って楽しいですか?」
「……それは」
結月は一瞬だけ答えに詰まった。
自分はまだ大学へ通っていない。
春から進学する予定は決まっているが、その進学先と通学方法について、宮家内部では現在も揉めている。
それでも少女は、結月が答えるのを待っていた。
「私も、楽しい大学生活にしたいと思っています」
「友達いっぱい作る?」
「作りたいですね」
「彼氏は?」
「えっ」
周囲の時間が一秒ほど止まった。
職員の顔が引きつり、記者の何人かが露骨にこちらを見た。
警護担当者は表情こそ変えなかったが、空気だけが少し硬くなった気がする。
質問した少女本人は何も気にしていない。
「大学って彼氏作るところでしょ? お姉ちゃんが言ってた」
「そ、その認識には、少々訂正の必要があるかもしれません」
「作らないの?」
「それは……縁があれば、と申しますか」
「好きな人いないの?」
「現在はおりません」
なぜ自分は公務の場で恋愛相談をしているのだろう。
十九年間の教育でも、この事態への対処法は教わっていなかった。
少女が不思議そうに首を傾げる。
「きれいなのに?」
「ありがとうございます」
「じゃあ大学行ったらできるね」
「そうなるかどうかは分かりませんが」
「できたら教えてね」
「それは……お約束しかねますね」
思わず笑ってしまった。
すると少女も笑った。
周囲の大人たちもようやく緊張を解き、場が和む。
けれど結月の胸には、その何気ない言葉が残った。
大学へ行ったら。
友達ができる。
もしかしたら、恋人もできる。
それは少女にとって、疑う必要すらないほど普通の未来なのだ。
「殿下?」
職員に呼ばれ、結月は我に返った。
「申し訳ありません。少し考え事をしてしまいました」
再び笑顔を作り、見学を続ける。
その笑顔はいつも通り完璧だった。
けれど心の中では、昨夜閉じた紺色のノートが開いていた。
『大学で友達を作る』
『学食で昼食を食べる』
『放課後に寄り道をする』
『恋をする』
最後の一項だけは、思い出した途端に少し恥ずかしくなった。
◇
夕方、宮邸へ戻った結月は、父の書斎の前に立っていた。
扉を叩く前から緊張している。
公務で数百人の前へ出ることより、自分の父親と話すことのほうがよほど怖いというのは、冷静に考えると妙な話だった。
「どうぞ」
中から低い声が聞こえる。
「失礼いたします」
瑞穂宮雅久親王は、書斎の机で書類に目を通していた。
五十代半ば。
公の場では物静かで穏やかな人物として知られているが、家庭ではかなり厳格な父親である。
とりわけ結月に対しては厳しい。
第一女子として、幼い頃から期待されてきたからだ。
「戻ったか。今日の訪問はどうだった」
「皆様に温かく迎えていただきました。子供たちともたくさんお話しできました」
「そうか」
父は書類を置いた。
「何か話がある顔だな」
やはり親には分かるらしい。
結月は向かいの椅子へ腰を下ろした。
「お父様。大学進学について、改めてお願いがあります」
雅久の表情が、わずかに曇った。
「その話なら、すでにしたはずだ」
「はい。ですが、私はまだ納得しておりません」
「結月」
「最後まで聞いてください」
自分でも驚くほど強い声が出た。
雅久も少し驚いたようだった。
結月は膝の上で手を握る。
「私は、一般の学生として大学へ通いたいのです」
「認められない」
即答だった。
「まだ理由も申し上げておりません」
「理由の問題ではない。おまえの立場で、身分を伏せて一般学生に混じるなど、安全面だけを考えても現実的ではない」
「警備については工夫できるはずです」
「簡単に言うな。おまえ一人の思いつきで動く人間が何十人いると思っている」
「分かっています」
「分かっていない」
父の声が重くなる。
「大学へ通うということは、講義だけ受けて帰ってくる話ではない。誰と知り合うか分からない。どこへ誘われるかも分からない。写真を撮られ、インターネットへ上げられる可能性もある。一度でも身元が明らかになれば、おまえだけの問題では済まない」
「それも分かっています」
「ならば、なぜ」
「分かっているからです」
雅久が黙った。
結月は一度息を整えた。
ここで怯んではいけない。
昨夜までなら、父が厳しい顔をしただけで「申し訳ありません」と引き下がっていただろう。
しかし、それでは何も変わらない。
「私は十九年間、自分が何者なのかを教えられてきました。瑞穂宮家の一員であること。皇族として国民の皆様に寄り添うこと。恵まれた立場にいるからこそ、自覚と責任を持たなければならないこと。どれも理解しているつもりです」
「ならば——」
「でも、お父様」
言葉を重ねた。
「私は、その『国民の皆様』が、普段どのように暮らしているのかをほとんど知りません」
父の眉がわずかに動いた。
「視察で学校へ行ったことはあります。商店街を訪問したこともあります。電車に乗ったこともあります。でも、すべて予定として準備されたものです。私は友人と待ち合わせて電車に乗ったことがありません。自分で昼食を買って、公園で食べたこともありません。誰かに『今日、暇?』と聞かれて、その日の気分で出かけたこともないのです」
「それがおまえの立場だ」
「はい。今までは、それでいいと思っていました」
結月は父をまっすぐ見た。
「ですが、私はもうすぐ二十歳になります」
声が少し震えた。
それでも続ける。
「立場だけを知ったまま、大人になりたくありません」
雅久は何も言わなかった。
「私は普通の人になりたいわけではありません。皇族であることを捨てたいとも思っていません。ただ、一度くらい、自分が誰なのかを誰も知らない場所で、人と知り合ってみたいのです。内親王だから話しかけてくれる人ではなく、私自身と友達になってくれる人に会ってみたい」
「危険を冒してまでか」
「お父様にとっては、くだらないことかもしれません」
「くだらないとは言っていない」
「では、私にも選ばせてください」
結月はそこで一度言葉を切った。
喉が乾いていた。
手のひらには汗まで滲んでいる。
漫画の主人公なら、この辺りでもっと格好のいい台詞を言うのかもしれない。
けれど現実の自分には、そんな言葉は浮かばなかった。
「私……友達とファミリーレストランへ行ってみたいんです」
雅久が瞬きをした。
「……何?」
「ドリンクバーというものを利用してみたいです」
「今、その話をしているのか?」
「大切なことです」
「結月」
「それから、大学祭で模擬店もしてみたいですし、試験前には友人と勉強したいです。講義のあとに『今日は疲れたから何か食べて帰ろう』と言ってみたいですし、できればアルバイトも……」
「待ちなさい」
「まだあります」
「あるのか」
「たくさんあります」
結月は真剣だった。
雅久は額に手を当てた。
「おまえは大学というものを何だと思っている」
「青春を経験する場所です」
「学問をする場所だ」
「もちろん勉強もいたします」
「今、完全についでだっただろう」
「そのようなことはありません」
「目を逸らすな」
結月は窓のほうを見た。
父からため息が漏れる。
不思議なことに、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
しかし、結月にはまだ言っていないことがあった。
ノートの一番下。
『大学で恋をする』
さすがにこれは言えない。
父にだけは絶対に言えない。
「ともかく」
雅久が口を開いた。
「今日ここで許可することはできない。警備責任者とも相談しなければならないし、おまえが考えている以上に問題は多い」
「では、相談していただけるのですね」
「許可すると言ったわけではない」
「ですが、最初から不可能だともおっしゃいませんでした」
「言葉尻を取るな」
「お父様が曖昧な表現をなさるからです」
「随分と口が達者になったな」
「十九歳ですので」
また父が額を押さえた。
結月は自分でも、少し言いすぎたかと思った。
けれど謝らなかった。
今日だけは引き下がるつもりがなかった。
「私は諦めません」
父が顔を上げた。
「何度反対されても、またお願いに来ます」
「……そうか」
「はい」
「誰に似たんだ、おまえは」
「お父様ではありませんか?」
「私はそこまで面倒ではない」
「お母様に確認してみます」
「やめなさい」
今度こそ、結月は少し笑った。
父も笑いこそしなかったが、完全に怒っている顔ではなくなっていた。
「もう下がりなさい。今日は疲れただろう」
「はい。失礼いたします」
椅子から立ち、扉へ向かう。
手をかけたところで、父の声がした。
「結月」
「はい」
「ひとつだけ聞く」
振り返る。
「なぜ、そこまで大学生活にこだわる」
今度こそ、本当の理由を尋ねられた気がした。
結月は迷った。
青春ラブコメ漫画が好きだから。
普通の女の子に憧れているから。
友達が欲しいから。
恋をしてみたいから。
理由はいくつもあった。
しかし最後に口から出たのは、もっと単純な言葉だった。
「後悔したくないからです」
父は黙って聞いている。
「十年後に振り返ったとき、『あの頃、本当はやりたかった』と誰かのせいにする自分にはなりたくありません。もしできなかったとしても、自分で望んで、自分でお願いして、それでも駄目だったのなら諦められます。でも、最初から何も言わずに諦めるのは……もう嫌なのです」
雅久は長い間、何も答えなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「分かった。検討はする」
結月は目を見開いた。
「ありがとうございます!」
「まだ喜ぶな。検討するだけだ」
「はい」
「その顔はもう許可された顔だな」
「そのようなことはありません」
「口元が笑っている」
結月は慌てて口を引き締めた。
今度こそ一礼して部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、足取りが軽くなった。
まだ何も決まっていない。
大学へ普通に通える保証など、どこにもない。
それでも初めて、自分から扉を叩いた。
自室へ戻ると、結月は真っ先に枕の裏から紺色のノートを取り出した。
そして一ページ目に、新しい項目を書き加える。
『零、諦めずに大学へ行く』
しばらく文字を眺めてから、その下に小さく付け足した。
『できれば、素敵な恋もする』
書いた途端、急に恥ずかしくなった。
「……できれば、ですからね」
誰もいない部屋で言い訳する。
もちろん、そのときの結月はまだ知らない。
数か月後。
念願かなって身分を隠し、「水瀬結衣」として大学の門をくぐった自分が、青春漫画のような美しい運命の出会いどころか、見知らぬ男子学生のコーヒーを頭から浴びることになるとは。
そして、その最悪の出会いこそが、十九年間一度も予定表に書かれたことのなかった人生の始まりになることも。
第35話 手をつなぐ理由がありません 結月は、自分が人混みを苦手としているつもりはなかった。 公務では大勢の人の前に立つこともあるし、式典や行事で人に囲まれることにも慣れている。警備に囲まれて移動する場面も多かったから、人の数そのものに圧倒されることはない。 ただし、それと「休日の駅で、一般の利用客に混ざって自分の足で歩くこと」は、まったく別の技術らしい。「水瀬、こっち」「分かっています」「いや、そっち行くと反対ホーム」「分かっていました」「今看板見たよな?」「確認しただけです」「はいはい」 土曜日の午後。 二人は、前回約束していた書店へ再び足を運んだ帰りだった。 今回は互いに選んだ本の感想を少し話し、さらに別の棚を見て回ったせいで、予定より長く滞在してしまった。結月には午後の予定がなかったため問題はないが、駅へ戻った頃にはちょうど人の多い時間帯になっている。 家族連れ。 買い物客。 学生。 観光客。 改札前を行き交う人の流れは絶えず、ほんの少し気を抜けば別の方向へ押し流されそうになる。「高瀬さん、皆さん歩くのが速くありませんか」「水瀬が遅いんだよ」「私は普通です」「さっきから三回立ち止まって看板見てる」「間違えないためです」「それで後ろ詰まってる」「……では、もう少し速く歩きます」「無理しなくていいって。俺についてくれば」「その言い方だと子供扱いされているように聞こえます」「じゃあ迷子にならないでください、お嬢様」「やはり子供扱いではあり
第34話 高瀬さんが選んだ一冊 誰か一人のために本を選ぶという行為が、これほど難しいものだとは思わなかった。 結月は日曜日の夜、自室の本棚の前に立ったまま、もう二十分近く同じ場所を行ったり来たりしていた。自分が読む本を選ぶのであれば、ここまで迷うことはない。表紙を見て気になったものを手に取ることもあれば、好きな作家の新刊を迷わず買うこともあるし、書評や友人の感想を参考にすることもある。 けれど、今回の条件はまったく違った。 高瀬湊に読んでもらいたい一冊。 そう考えた途端、目の前に並んでいる本がどれも決め手を欠いているように見えてしまう。「恋愛小説は……少し露骨でしょうか」 棚から一冊取り出した結月は、裏表紙のあらすじを読んでから、すぐに元へ戻した。 身分の違う男女が惹かれ合い、周囲の反対を受けながら関係を深めていく物語だった。普段なら好きな題材であるし、実際に何度も読み返している。 しかし、今これを湊に渡す勇気はない。 自分たちの状況を知っているのは結月だけだとしても、「なぜこの本を俺に?」と聞かれた瞬間にまともな顔を保てる自信がなかった。 次に手にしたのは、秘密を抱えた女性が身近な男性に少しずつ心を開いていく小説だった。「これはもっと駄目です」 即座に戻した。 秘密、偽名、言えない事情。 今の自分には近すぎる。 まるで、自分から高瀬湊へ「ここに答えがあります」と赤い線を引いて渡すようなものではないか。 結月は腕を組み、改めて本棚を見渡した。 そもそも、なぜ自分はここまで悩んでいるのだろう。 前の話で湊と交わしたのは、「次に出かけるなら、お互いに一冊ずつ本を選ぼう」という軽い約束だった。学校の課題でもなければ、贈答品の選定でもない。もっと気楽に考えてよいはずなのだ。
第33話 それでも二人でいると楽しいのです 初デートではなかった。 少なくとも、高瀬湊本人はそう言った。 もっと正確に言えば、「最初からデートだと決めて誘ったわけではない」という話であって、結月が完全な勘違いをしていたわけでもなかったらしい。しかも最後には、「次にまた二人で出かけるなら、最初からデートだと言って誘うかもしれない」とまで言われた。 そのため、昨夜から結月の中では評価が定まらないままだった。 失敗だったのかと言われれば、まったくそんなことはない。 楽しかった。 むしろ、かなり楽しかった。 書店へ行き、昼食を食べ、雑貨を見ただけである。恋愛小説なら一章分を使うほどの出来事ではないかもしれない。それでも自分にとっては、帰宅したあとまで何度も思い返してしまうくらいには大切な一日になっていた。「……結局、デートかどうかにこだわりすぎたのでしょうか」 月曜日の朝、結月は紺色のノートを閉じながら独り言を漏らした。 昨夜最後に書いた文章が、やけに素直だった。『デートかどうかより、高瀬さんと二人で過ごすこと自体が楽しい』『なら、次も行きたい』 読み返すと、少し恥ずかしい。 けれど消したいとは思わなかった。 その二行だけは、どう考えても本当だったからだ。 ◇ 大学へ着くと、美月はいつものように先に来ていた。「おはよう、結衣ちゃん。で、どうだった?」 挨拶の直後である。「何がでしょう」「土曜日」「もう少し世間話を挟んでもよいのではありませんか」「昨日の日曜日、聞くの我慢したんだから褒めてよ。メッセージしようか三回くらい迷ったんだよ」「
第32話 初デートではない、と高瀬さんは言いました 「デートではない」と言われたあとに、その相手と二人きりで昼食へ向かう時間ほど、扱いに困るものはないのかもしれない。 結月は、その事実を身をもって学んでいた。 ほんの数分前まで、自分は休日の街を高瀬湊と並んで歩いているだけで楽しかった。大型書店では好きな本について話し、くだらないことで言い合い、いつもの大学とは少し違う服装を褒めてもらった。それだけで胸の奥がふわふわと落ち着かなくなり、もしかすると今日は、自分がこれまで漫画やライトノベルの中で何度も見てきた「初デート」に当たるのではないかと考えていた。 だから本人へ確認した。 父の「なぜ本人に確認しない」という、恋愛にはまるで似合わないほど合理的な助言を採用した結果だった。 そして返ってきたのが、『別に、そういうつもりじゃ』 である。「……」「……」 二人の間に、先ほどまでなかった沈黙が生まれていた。 湊は少し前を歩いている。 結月は半歩遅れて、その隣を歩いていた。 別に怒ってはいない。 少なくとも、怒る資格はない。 勝手にデートかもしれないと思ったのは自分だ。湊は最初から「本を見に行こう」としか言っていないし、「デートをしよう」と誘ったわけではない。 それなのに。 胸の奥には、薄い紙で指先を切ったときのような、小さいくせに無視しづらい痛みが残っていた。「水瀬」「はい」「さっきから静かじゃない?」「そうでしょうか」「そうだろ」「本を見たので少し疲れただけです」「一時間前まで、あのフロア全部見そうな勢いだったの
第31話 これはデートなのでしょうか 水瀬結衣として大学へ通い始めてから、結月は数え切れないほど「初めて」を経験してきた。 初めて友人と学食で食事をした。 初めて大学生の男性と二人で昼食を取った。 初めてアルバイトをした。 初めて自分で得たお金で誰かに飲み物を奢った。 初めてプリクラを撮った。 初めて相合傘をした。 そのたびに緊張し、失敗し、思っていたものと違うと知り、それでも最後には「経験してよかった」と思ってきた。 だから今回も。 ただの新しい経験。 そう考えればよい。 はずだった。「……こちらでしょうか」 土曜日の朝。 結月は自室の姿見の前で、三着目のワンピースを身体へ当てていた。「いえ」 数秒考え。「少し気合いが入りすぎているような」 ベッドの上。 一着目。 二着目。 椅子の背。 候補から外したカーディガン。 机の上。 アクセサリーが二組。 普段の大学生活では考えられないほど、部屋が服で散らかっている。「……こちらのほうが自然でしょうか」 四着目。 薄い水色のブラウス。 白に近いベージュのロングスカート。「でも、大学でいつも着ているものとあまり変わりませんね」 それが良いのか。 悪いのか。 分からない。 結月はスマートフォンを見る。 昨夜。
第30話 これは恋ではありません、と言い切れなくなりました 翌朝、結月は目を覚ますと、昨夜閉じたはずの紺色のノートをもう一度机の上へ置いた。 昨日、自分で書いた文章が気になって仕方がなかったからである。『高瀬さんも「分からない」』『私も「分からない」』『でも、二人とも相手が他の誰かと付き合うのは少し嫌』 そこまで書いてしまった。 しかも最後には、自分自身で「かなり分かりやすいのでは」とまで考えた。 朝になれば冷静になれるかもしれないと思ったのだが、残念ながら恋愛感情というものは一晩眠った程度では都合よく整理されてくれないらしい。「では、最初から確認しましょう」 誰に言うでもなく、結月は椅子へ座った。 机の上には、紺色のノート。 窓から差し込む朝の光。 そして、これから自分自身へ行う予定の、あまりにも個人的な検証。 公務なら資料の確認は得意だった。事実を並べ、状況を整理し、必要な結論を導く。曖昧な表現を避け、感情と事実を分けて考える。 ならば恋愛も同じように分析できるのではないか。 結月はそう考えた。 この時点で既に少し間違っていた。 ◇ 最初の記録。『昨日ぶつかった男。かなり失礼』 結月はその文章を見て、少し笑った。「これは間違っていませんね」 今でも失礼である。 そこは変わっていない。 さらにその下。『笑った顔は少しだけ悪くない』 結月は眉を寄せた。「……これは」 かなり初期。 まだ知り合って間もない頃。